半角スペースを入れたい病

最近 文章に半角スペースを入れたい病に罹っている。どんな時に症状が出るかというと、読点を打つまでもない、けれど繋げて書くと読みにくい言葉の並びになる時。ひらがな同士、漢字同士の連なり方が不自然な場合に発症して、半角スペースを入れてしまう。例えば冒頭の「最近 文章に…」みたいに。一方で「漢字同士の」みたいな場合は自然な連なりだから半角スペースを入れると逆に不自然になる。この やり方は もちろん正しい日本語の書き方ではないので推奨は全くしないけれど、やっぱり言葉同士を離したいときがあって、そう考えると はてな は結構その頻度が高いし、昔、編集の方も文章中での扱いづらさを指摘されていた。「今日ははてなのサービスを使った」うーん読みにくい。「今日は、はてなのサービスを使った」うーん読点を入れるほどじゃない。「今日は はてなのサービスを使った」うーん なんか怒られそう。  そんなわけで はてなは前株で良かったと思う次第です。

marquee日記の衝撃

↓の日記は、marquee - hitode909の日記 から多大な影響を受けて書いています。

 

                こんにちは   sawaccioです。          hitode909さんが 昨日 marqueeで書いた日記を読んで   さっそく  影響を受けて  この日記を書いている。    それにしても   しかし    本当に  衝撃を受けた!    なるほど    この手があったか!    と  盲点を  思いっ  っ  っ  きり  つらぬかれたような     脱帽モノの発想。   これぞ    枯れた技術の水平思考!     と  言ったら   大げさだ   という人も  いるかもしれないけれど    全然   大げさではない。      文章に    「時間」   を与えることで    音読のような   「間」   が生まれる。            なにを 言ってるんだ   と  思う人も   多いだろう     だから例をあげてみる       それでは ↓ にご注目                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    いま流れた文章は   TOKYO FMの   長寿番組  「ジェットストリーム」 の オープニング・ナレーションを 引用したもの。   ちゃんと   精査してない  ので  違和感 が  あるかもしれない    けれど  なんとなく  音読の ニュアンスっぽさが  文章で  出たと思う。    最近は    言語 の 拡張性   というか    意思疎通 の 拡張可能性    に  興味があって   例えば   明治時代 に  起きた   言文一致運動   に 興味があったり    逆に  インターネット時代の   言文が  どんどん 乖離 している流れ    例えば   "顔文字"   から  始まって   "アスキーアート"   そして   "スタンプ"   への  非言語展開    あるいは   "草不可避wwww"   とか   "dmdm"   などのネットスラング    さらには  機械  との 対話 である  "プログラミング言語"  などなど   そういった  意思疎通 を めぐる 大きな動き  が 現在進行形 で 起きていて  とても面白い。    メディア が 変われば 言葉 も 変わる。  「歌は世につれ」  言葉も世につれ。    そんなこんなで   marquee日記   は  文章 の 拡張可能性 を 感じさせて  と っ っ っ っ っ ても   面白い!!   と興奮している。   それではまた!

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      遠い     地平線が     消えて      ふかぶかとした  夜の  闇に   心を  休める 時          はるか   雲海の  上を      音もなく  流れ去る   気流は           たゆみない    宇宙の  営みを   告げています                       満天の  星を  いただく    はてしない   光の  海を     ゆたかに   流れゆく    風に  心を  開けば        きらめく   星座の  物語も    聞こえてくる        夜の  静寂の      なんと  饒舌な  ことでしょうか  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

かたくなに行雲流水

サラバ正しい文章!書くも酔狂、読むも酔狂、コチラ個人の日記、裏路地の居酒屋みたいなもんでございますヨと宣言すればアァ気楽、冷やかしは帰っておくれと言いやすい。けどそりゃ個人のよがりってもんで、世間的にゃブログを書くことってのは壇上でスピーチ大会!みたいなイメージが強い。拍手も起きれば野次も飛ぶ。強いられる緊張。昨日も書いた通り、もっと緊張感なく楽〜♪に文章書いてもいいじゃないかと、書く=サービスじゃなくていいんじゃないか、もうちょっとひとりよがりを許していいんじゃないか、ってことで「正しい文章を書かねばならない!」って縛りを解いたらすごい楽しい気持ちでいま書けている。もちろん構成なんて考えてないから、ここから何が書かれるか、自分でもわからない。それがまた楽し。酔狂イズ即興。ところで読みやすさと書きやすさはトレードオフの関係にあるのだろうか。そうでもないだろうというのが私の私見、ワタクシノシケンでございます。というのも写真の世界では、ご存知インスタグラムというサービス、これは写真の投稿に素晴らしいアシストをすることで大ヒットしたわけですが、このアシストというのがヒントで、文章にもアシスト機能があって、いまみたいに好い加減に文章を書いてもアシスト機能によって読みやすい文章になる、すると読みやすさと書きやすさが両立してバンザイ!となりうるわけです。ただワタクシ問題はこのあたりのソリューションを見出すには圧倒的に知識も思考もアイデアも全部足りない。そもそも上記の考え自体が良い筋とも死に筋とも判断つかないのでまずは自分の一歩から、正しさに挫けて酔狂に倒れるということを、いま試みてる次第です。書き言葉とか話し言葉とか、そもそも言語とか意思疎通とかへの興味が高まって、今日は図書館に行って面白そうな本を何冊か借りた。でもまだ読んでない。最近はとりわけ気持ちのムラ、抑揚が異常に振れまくって、突然いっさいの気力がなくなる→蘇る→なくなる→忘れる→思い出す→忘れる、なんて感じでどうしようもない。どうしようもないので無理にどうすることもせず行雲流水シップにのっとり堂々とがんばらないことを誓います、いや、誓うのも億劫だから「期待は失望の母」という名言をもって、ご挨拶とかえさせていただきます。

タイトル ← トルツメ

どうもどうも堂本ツヨシヨワシのヨワシです、などと誰の得にもならぬ冗談(話しかけられて入力中断)(中断終わり)を、ええとなんだったけな、そうだ誰の得にもならぬ冗談を申し上げてすみませんと書きかけて(もう書いたけど)、いやいやこれは個人の日記だもの別に誰かに奉仕、換言すればサービスするために書いているのでは無いのだから別に申し訳ないがる必要は無いのだと、ジャストナウ、考え直したわけです。さらにそもそも最近考えているのは、なんでこんなに文章を書くのが自分は億劫に思うのか、けっして書くのが嫌いなわけではないのになぁと煩悶したりしていたわけですが、自分なりに考えてみた結果、どうも「正しい文章」というものに怯えているんだということがわかって、ああそうかと、考えてみればこれは個人の日記で誰かに奉仕するために書かないのであれば、別に正しい文章を書く必要は無いんじゃないかと、そう思ったわけです。正しい文章ってのは読みやすさへの配慮というか文章のデザインルールなわけで、それはうん、サービスだと。つまり文章を書くにあたってお金をもらったりとか、理解してほしいとか、すごいと思ってほしいとか、好きになってほしいとか、そういう報酬と交換するために、あるいは社会に貢献したいというボランティアのために、読みやすい文章、つまりデザインされた文章を提供するサービスを行うわけで、すると対価や貢献を求めなければ別にサービスしなくていいんじゃないかと、頭痛が痛いと書いたり、「たり」が一回しか無くてダメとか、そういった正しさみたいなものからちょっと自由になってみようかと思って、それから本当に自由になれるのだろうか、ちょっと試してみようということでいま書いている。ですます統一も無視して。単に読みにくい文章を書くなんてのは、まあひとりよがりになる可能性は大なわけですが、このあたりあと3つくらい付随して思うことがあって、1つは個人の日記で、酔狂で書く、とするなら読む方も酔狂でよろしくという、つまり読みにくさ=悪では必ずしも無いのではないかと。実は、いま意識して書き起こし文のように書いているけれど、本当はポッドキャスト的に音声でブログ更新しようかと思った、そうすれば聴く方のハードルも上がるので、語るも酔狂、聴くも酔狂、でいい感じのハードルができるのでないか、そうすれば個人の日記に変なこと言われることも避けられるのではと思った、思ったけれどもいざマイクに向かってみようかと思うとどうも気恥ずかしいので折衷案としてこうしている。そんで(そいで)(それで)2つ目はブログってTwitterと比べて一般的に書くのが大変だし、なんで大変なんだろうっていうことを考えつつ、もしかすると書きづらいのは歴史的理由に寄るんじゃないかという仮説、このあたりはまったくの私見だけど、紙以前の時代は、不特定多数に向けたひとかたまりの文章を書くのはもっぱらプロで、プロはもちろんサービスをするからプロなので、正しい文章を書くのが求められる。それが当たり前になってしまっていて、ネット以降の個人の日記なんかでも文章は正しくなきゃいけないという思い込みにつながっているのではないか、そのあたりの当たり前をちょっと疑ってみたいという気持ちもある。もちろんジュウゼロの話ではなくて、読みやすさも大事だ。けれど誰もが書き手の時代なんだから「書きやすさ」の方にもちょっと視点を置いてみてもいいんじゃないかなあと思って視点を置くことにしてみる。Twitterは歴史的束縛がなくて、かつ構造が本当に優れていて書き手と読み手が対等だからサービス意識が求められないので、すごく書きやすいんじゃないかと思っている。まあ多くの人はそんなに日常、長文で思考しなかったり、「あ」と思う気分は一瞬だから、というのもあるだろうけど。うーん、でも一方で多くの人がブログを始めて、そのなかの結構な人が挫折をする(僕もそうだ)。そこには何か、ブログに対するニーズ、あるいは憧れなのか、何かこう求めるものがあって、でも始めてみてもしんどくなったり習慣にならなくてやめてしまうのは、そこにやめた人に共通する問題がありそうで、ボトルネックを知りたいという関心も動機になっている(と思う)。だいぶ長くなってしまってここまで読んでる酔狂な人がいるのだろうかと思いつつ、3つ目は、情報だけじゃないな、ということに気づく機会があって、先日ラジオ番組の書き起こし文を読んで、まあ面白かったけど、それからそのラジオ音源があったので聴いてみたところ、さらに圧倒的に面白かった。得られる情報、知識は一緒なんだけど、言い回しの抑揚とか間とか笑い声の感じとか「えーと」とか「あー」とか「うんうん」とか、そういったところがやっぱり面白いんだと思った。落語もそうだけど、語る内容が面白いという上に、語り口が面白い、グルーヴが心地よいといった面白さがあって、そのあたりで「意味はないけど味がある」というフレーズがポーンと浮かんで、あ、そうか、そこチャレンジしてみるのは無謀にも面白いと思った。そんなこんなで、そしたら、なんか散乱して考えていたことが散乱したまま、あれ、これ一つの地図じゃないかな?となって、うーん地図じゃなくて染みの可能性もあるけどなぁ、という気持ちもありつつ、まあ進んでみるか、という酔狂で書き進めていまふと気づけば、2200字を越えて書いている、原稿用紙5枚半。

我が家の猫

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名前はこはく。11歳の童顔おじさん。飼い主と同じくヒゲ(っぽいブチ)が特徴。

 

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ねむい。

 

 

 

今週の一枚「いきものの写真」

最初の瞬間のすごく小さなエラー

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バス停でバスを待っているとき、ふと見上げると、雨よけの屋根の上に看板があった・・・ように見えたのは一瞬で、広告ディスプレイがガラス屋根に反射している虚像だと、次の一瞬で認識は改まった。

最初の瞬間、たしかに看板が「ある」と感じた錯覚の理由は、どうやらガラス屋根のデザインに根拠がありそうだ。ガラス屋根にはストライプの不透明な線が入っている。一部が透過のレイヤーにみえる視覚の効果によって「反射してる」と思う前に「透けて見えている」とうっかり思ってしまったのだろう。

すぐさま「暗い場所にあるガラスは鏡のようになる」という当たり前の経験知によって認識は自動で補正された。けれども、最初の瞬間のすごく小さなエラーは、いかに日常を「当たり前」が自動補正しているかを認識させてくれた。

年末からのぉ〜↑↑・・・年始がキタ━(゚∀゚)━!!!!

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大晦日から二泊三日で帰省。元旦は伯母宅に赴き新年の挨拶。それから少し近所を散歩。ラーメン店の開店を祝う花輪に初日がさして、めでたさマシマシだったのでパシャリ。

パシャリとは - 日本語表現辞典 Weblio辞書

主に、カメラのシャッターが開閉する音を模した表現。写真撮影を行うことなどを表す語。

 

実家から戻り、京都の寒さを実感。寒い。寒シングエルス。寒シングエルスは寒いときに自然と浮かぶダジャレです。どうぞご利用ください。それから長時間の運転で疲れて眠い。眠ステルダム。眠ステルダムは眠いときに自然と浮かぶダジャレです。どうぞご利用ください。

2014年、抱負のひとつは「肩肘張らずに書く」です。どうぞご容赦ください。

 

 

今週のお題「私の年末年始」

はてなブログおみくじ2014

 

はてなブログおみくじ2014

 

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

ゼロ・グラビティは"体験"の映画

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 http://gravitymovie.warnerbros.com/

 

上司のchrisさんから「この映画は劇場で観たほうが良い」と薦められたので、3D字幕版を観に行ってきました。サンドラ・ブロックジョージ・クルーニーの出演ということで、いわゆるハリウッドらしいストーリーを想定していましたが、良い意味で全く違いました。

宇宙飛行士の危機をストイックに追う本作の3D版は"鑑賞"というより"体験"です。

長回しで自由自在に動くカメラワークは天地の感覚を失わせ、3Dエフェクトは絶望的な深淵や衝突の恐怖を体感させます。

3D映画は好んで観るほうですが、反射的に体が動いたのは初めてでした。他人が両隣に座るなか、急に飛んできた物体に驚いて右に大きく避ける姿勢をとってしまい、

「俺、いま体が動いた !? ...びびって避けようとした !! うわ超恥ずかしい…」

と赤面しました。

ストーリーも定石外の展開を重ねるので、ベタでない絶体絶命感、どちらに転ぶか判らない緊張感がずっと続きます。

映画の後で、あらためて公式の2D予告ムービーを観直したところ、コレジャナイ感がすごい… あれはやはり"体験"だったなぁと思います。

あと、観終わってから知りました、原題は「GRAVITY」なんですね。あえてゼロ・グラビティとしたのはタイトルの印象力を強めたかった、と推測。一方で、邦題を批判してる人が多く、その理由には深く同意しつつも宣伝との兼ね合いを考えると個人的にはダメとも言えず… タイトル付けの難しさを感じます。

時差

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